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チブックがなくなっていた。亜矢のは残っていた。
妻はガッカリして、それでも思いなおしてベニスに渡った。「絵描きがスケッチブックを盗まれるなんて、いったいどうしたんだ」
ベニスは観光地だけに、日本人がいっぱい来ていた。二人はなるべく日本人を避けて、船だまりで見た光景やべニスの人々の生活のある風景をもっぱら絵にして歩いた。
恋人同志で歩いていたカップルが妻に「ボンジウル」と声をかけたり、ぶどうを売っていた年配の女性も「ボンジウル」と挨拶した。亜矢には「ありがとう」とわざわざ日本語でいうのに、妻には「ボンジウル」とフランス語で声をかけるのは、ここに限ったことではない。妻がフランス人に似ているとは思わないが、いつもベレー帽をかむっているのは事実だ。列車のなかで二人ならんでいるときも、亜矢には「こんにちは」妻には「ボンジウル」といったそうだ。服装や見のこなしにパリジャヌみたいなところがあるのだろう。
サンマルコ寺院広場の近くにホテルをとったが、近くのレストランに行って食事をした。広場には二つの楽団がいて東と西で演奏していた。バイオリンがバンドマスターをしている楽団がシャンソンの「ばら色の人生」をかなでてくれた。レストランのボーイが「ストールのために」とささやいたが、そこでストールをかけていたのは妻だけであった。こんどの旅行でもこういう楽しかったこともある。
ホテルに帰って、線画でしか描いてないコンテに色彩を塗ったりして、十二時近くになったので、妻は盗まれないように、スケッチブックのリボンをしばって、セーターでまるめて旅行カバンの中ほどに入れた。さらに紙幣や大きなガーネットの指輪をその上に置いて眠った。
夜半、亜矢のベッド近くで「ゴトン」という音がした。すぐにドアーのきしむ音がしたので、亜矢は「誰?」ととび起きた。カメラが落ちたのかと思ったのだ。
ふたりでドアを開けて部屋の外を見た。誰もいない。廊下にはかくれるところもないので見通しができたが、誰もいなかった。時計は二時だった。
翌朝、起きてから、船だまりに行こうというので、鞄をあけてみた。指輪も紙幣もそのままだったので、なんの疑いもなく、鞄を開いたのだ。スケッチブックだけがなかった。ふたりはベッドの下までひっくり返してさがした。そこでガッカリした妻が床に腰を下して、ふと天外をみると、まるい空気孔が三つあった。「これを落としてみて」と新しいスケッチブックを亜矢に天井から落してもらった妻は、その音が昨夜、聞いた音と同じだったことに驚いた。妻はいった。「トリノの蔦かずらが取りに来たんだわ」
ふたりは恐怖にふるえた。それでも気を取り直して船だまりまで行ったが、なにも描けなかった。描く気力も失って、妻は半狂乱であった。
美術評論家の米倉守氏には「助けてくれ」という手紙を出しているし、東京にいる私のところへも「私を守って」と電話をかけている。
妻は野すみれの花束を持って東京に帰ってきた。野すみれの花束が守ってくれた、と信じている。
札幌に帰って、亜矢から送られて来たはがきには「夢か現実か、長くて不思議な旅でした。私たちを守ってくれたスミレの花」とあった。十二日間ほどの旅である。(平成八年十二月、箱根にて) 日本旅のペンクラブ代表会員

 

 

 

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